【尋問傍聴レポート】カオス*ラウンジによるハラスメントの有無をめぐるそれぞれの証言から日本現代美術業界の問題を考える⑴
高橋沙也葉(京都大学大学院博士後期課程、美術史研究)
はじめに
訴訟の概要現代美術集団「カオス*ラウンジ」および合同会社カオスラの元代表である黒瀬陽平氏、スタッフK氏、社員F氏ら(以下敬称略)から辞職強要および不当解雇などのハラスメントを受けたとして、安西彩乃氏が彼らを提訴した裁判の尋問が、2022年6月2日午前10時半頃、東京地方裁判所の法廷で開かれた。
2022年8月現在、安西とカオスラの間では二つの訴訟が並行して進行している。両者が共通して認めているそれら二つの訴訟までの大まかな経緯は次のようなものだ。2019年4月、当時カオスラの代表であり「ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校」の講師であった黒瀬陽平から誘いを受けた安西はティーチング・アシスタントとして同校で勤務を開始し、その一ヶ月後には黒瀬によってカオスラのアルバイトにも抜擢される。そして2019年7月、黒瀬のアプローチによって安西と黒瀬のあいだで異性関係が始まる。次第に職場でより多くの業務を任されるようになっていた安西は、2019年9月には交渉の末マネージャーとしての地位を与えられ、カオスラのスケジュール管理やギャラリー業務、各企画の進捗管理にも正式に携わるようになる。黒瀬は当時36歳で既婚者、安西は24歳で独身であった。
それからおよそ一年後の2020年5月、黒瀬の妻に二人の異性関係が発覚する。直ちに安西は、不貞行為の損害賠償の一つとしてカオスラを退職するよう黒瀬の妻から要求を受けるようになった。退職は不当であると感じていた安西は、黒瀬、カオスラのスタッフK、社員Fにそれぞれ相談を持ちかけ、6月には4者間での会議が行われた。会議では、黒瀬の家庭やカオスラの活動の今後が考慮された上で、「安西のカオスラ退職は妥当であり、自主退職をしない場合の解雇はやむを得ない」という意思表示がなされ、安西は退職を申し出た。なお、この時期に安西と黒瀬の間で「安西の精神的損害に対し、黒瀬が賠償金を支払う」という内容の合意書が締結されている。
退職から1ヶ月ほどが経った2020年7月半ば、一年間の出来事——黒瀬との異性関係、関係が発覚してからの対応、そして安西に対してのみ課された極めて重い処分——を振り返り、自分が受けたのはハラスメントであったと自覚した安西は、カオスラ周辺の関係者に相談を行う。関係先企業から事情の聞き取りを受けたカオスラは、すぐにプレスリリース『弊社代表社員によるパワーハラスメントについて』を公開し、それぞれのTwitterでも謝罪文を投稿した。しかし、その内容に不信感を覚えた安西は2020年8月1日に自身の視点に基づくより詳細な経緯を記した文章『黒瀬陽平と合同会社カオスラによるハラスメントについて』をnoteに投稿する。その文章の中で安西は、そもそも黒瀬との異性関係はカオスラ代表としての立場を利用した黒瀬のセクシャル・ハラスメントから始まったものであること、また関係が発覚した際には黒瀬、スタッフK、社員Fによって望まない退職に追い込まれたことを記し、セクシャル・ハラスメントとパワー・ハラスメントの被害を訴えた。
2022年8月現在、安西とカオスラの間では二つの訴訟が並行して進行している。両者が共通して認めているそれら二つの訴訟までの大まかな経緯は次のようなものだ。2019年4月、当時カオスラの代表であり「ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校」の講師であった黒瀬陽平から誘いを受けた安西はティーチング・アシスタントとして同校で勤務を開始し、その一ヶ月後には黒瀬によってカオスラのアルバイトにも抜擢される。そして2019年7月、黒瀬のアプローチによって安西と黒瀬のあいだで異性関係が始まる。次第に職場でより多くの業務を任されるようになっていた安西は、2019年9月には交渉の末マネージャーとしての地位を与えられ、カオスラのスケジュール管理やギャラリー業務、各企画の進捗管理にも正式に携わるようになる。黒瀬は当時36歳で既婚者、安西は24歳で独身であった。
それからおよそ一年後の2020年5月、黒瀬の妻に二人の異性関係が発覚する。直ちに安西は、不貞行為の損害賠償の一つとしてカオスラを退職するよう黒瀬の妻から要求を受けるようになった。退職は不当であると感じていた安西は、黒瀬、カオスラのスタッフK、社員Fにそれぞれ相談を持ちかけ、6月には4者間での会議が行われた。会議では、黒瀬の家庭やカオスラの活動の今後が考慮された上で、「安西のカオスラ退職は妥当であり、自主退職をしない場合の解雇はやむを得ない」という意思表示がなされ、安西は退職を申し出た。なお、この時期に安西と黒瀬の間で「安西の精神的損害に対し、黒瀬が賠償金を支払う」という内容の合意書が締結されている。
退職から1ヶ月ほどが経った2020年7月半ば、一年間の出来事——黒瀬との異性関係、関係が発覚してからの対応、そして安西に対してのみ課された極めて重い処分——を振り返り、自分が受けたのはハラスメントであったと自覚した安西は、カオスラ周辺の関係者に相談を行う。関係先企業から事情の聞き取りを受けたカオスラは、すぐにプレスリリース『弊社代表社員によるパワーハラスメントについて』を公開し、それぞれのTwitterでも謝罪文を投稿した。しかし、その内容に不信感を覚えた安西は2020年8月1日に自身の視点に基づくより詳細な経緯を記した文章『黒瀬陽平と合同会社カオスラによるハラスメントについて』をnoteに投稿する。その文章の中で安西は、そもそも黒瀬との異性関係はカオスラ代表としての立場を利用した黒瀬のセクシャル・ハラスメントから始まったものであること、また関係が発覚した際には黒瀬、スタッフK、社員Fによって望まない退職に追い込まれたことを記し、セクシャル・ハラスメントとパワー・ハラスメントの被害を訴えた。
その後、安西とカオスラの間で協議が試みられるも、和解に至ることはなかった。2020年10月になるとカオスラは謝罪を撤回し、安西の訴えが虚偽のものであり、カオスラの名誉を毀損したとして、安西とnote株式会社を人格権の侵害・名誉棄損で提訴した。安西の訴えに対してカオスラが起こしたこの第一の訴訟(名誉毀損訴訟)を受けて、安西が支援者らの協力を得ながら提訴を行って始まったのが、2021年2月より進行中の第二の訴訟(不当解雇・パワー・ハラスメント訴訟)である。
これら二つの訴訟は、大まかにいえばどちらも「安西が被害を訴えているハラスメントは存在したといえるか」を争点とし、今日まで並行して議論を重ねてきた。このように二つの訴訟の争点が重なる場合には、どちらかの訴訟で行われた尋問の記録をもう一方の訴訟で参照して用いることが認められる。そのため、実質的には二つの係争全体に関わる証言の機会として行われたのが、本稿で取り上げる2022年6月2日の尋問(不当解雇・パワー・ハラスメント訴訟)である。
これら二つの訴訟は、大まかにいえばどちらも「安西が被害を訴えているハラスメントは存在したといえるか」を争点とし、今日まで並行して議論を重ねてきた。このように二つの訴訟の争点が重なる場合には、どちらかの訴訟で行われた尋問の記録をもう一方の訴訟で参照して用いることが認められる。そのため、実質的には二つの係争全体に関わる証言の機会として行われたのが、本稿で取り上げる2022年6月2日の尋問(不当解雇・パワー・ハラスメント訴訟)である。
尋問とはどのような場か
さて、当日の状況について論じるに先立ち、この「尋問」がどのような場であるかを簡単に確認しておきたい。民事裁判では一般的に、訴えを起こす人(原告)と訴えを起こされた人(被告)のそれぞれが、ある訴えの内容が事実かどうかについて争うために、法的な観点からサポートを行う弁護士とともに主張を記した書面や証拠を作成し、最終的に双方の言い分を吟味して判決を下すこととなる裁判所に提出していく。そして、両者の主張が出揃い争点が明らかになったところで、裁判官の立ち合いのもと行われるのがこの当事者尋問である(本人尋問とも呼ばれる)。
尋問では、原告と被告の双方が順に証言台に立ち、自分側と相手側の弁護士からそれぞれおよそ30分から一時間のあいだ様々な質問を受け、回答を行っていく。ここでは、自分側の弁護士からは自らの主張を補強することに役立つような質問が、反対に相手側の弁護士からはその主張の矛盾点を突くような(すなわち相手側の主張を補強するために役立つような)質問が行われることとなる。多くの場合、尋問に向けて原告・被告はそれぞれの弁護士とリハーサルを行い、また相手側が提出した書面や証拠の内容を十分に確認して対策を行うなど、当日の証言に備えている [★1]。しかし先述のように、互いの主張の矛盾点を追求するような場面においては、これまで語られてこなかった事の経緯や、当事者のより率直な心情が明らかにされることもある。それは裁判官にとって、これまで書面で提出されてきた主張と証拠をどのように理解するべきか、そして双方で主張の食い違いがある箇所についてはどちらがより理にかなっているかを見極めるための重要な検討材料の一つとなる。
尋問では、原告と被告の双方が順に証言台に立ち、自分側と相手側の弁護士からそれぞれおよそ30分から一時間のあいだ様々な質問を受け、回答を行っていく。ここでは、自分側の弁護士からは自らの主張を補強することに役立つような質問が、反対に相手側の弁護士からはその主張の矛盾点を突くような(すなわち相手側の主張を補強するために役立つような)質問が行われることとなる。多くの場合、尋問に向けて原告・被告はそれぞれの弁護士とリハーサルを行い、また相手側が提出した書面や証拠の内容を十分に確認して対策を行うなど、当日の証言に備えている [★1]。しかし先述のように、互いの主張の矛盾点を追求するような場面においては、これまで語られてこなかった事の経緯や、当事者のより率直な心情が明らかにされることもある。それは裁判官にとって、これまで書面で提出されてきた主張と証拠をどのように理解するべきか、そして双方で主張の食い違いがある箇所についてはどちらがより理にかなっているかを見極めるための重要な検討材料の一つとなる。
尋問当日である6月2日には、当事者の口から直接経緯が語られるこの機会のために少なくない数の人々が集まった。北709法廷はおよそ一般的な小学校の教室ほどの大きさで、新型コロナウィルス感染症対策で20席ほどとなっていた傍聴席は開廷の5分前には満席となった。法廷では、傍聴席から見て左手に安西と安西弁護人、そして右手にスタッフKと社員F、そして黒瀬弁護人とカオスラ弁護人が座っていた(黒瀬は自らの尋問にのみ出席し、それ以外の時間、法廷内に彼の姿はなかった)。10時20分頃、裁判官らが入廷して全員起立で一礼が行われると、この日17時過ぎまで続く長い尋問が始まった。
二編にわけて発表される本レポートは、尋問を傍聴した筆者がその場に立ち会って得た所感とともに、それぞれの口から語られた主張を検討した上で、両者の認識の差異がどのようにして生まれ、またその差異が日本の現代美術業界の構造的問題とどのように関わっているかを論じることを目的としている。前編にあたる本稿では、尋問当日のタイムラインに沿って安西、黒瀬、スタッフK、社員Fの証言の中からとくに重要であると思われる部分を取り上げて整理することで、両者の主張の全体像を掴み、議論の土台を作ることを試みる。なお、Be with Ayano Anzaiでは「尋問調書」(尋問の全文書き起こし)も同時に公開される予定である。ぜひ本稿とあわせて参照されたい。